本当はどうしてほしいのか、わかっていたのにあきらめていた
これは、昨日45歳になった私が、今年の抱負みたいなものを宣言する日記。
以前書いた日記(↑)をアップデートするもの。
先日「誰かにしてあげていることは、実は自分がしてほしいことだ」という言葉を聞いた。自分じゃない誰かに当てはめて「あの人もそうかもしれない!」なんてほくそえんでいたら「栃尾さんはアウトプット相談をしていますが、誰かに相談に乗ってほしいと思っていたりしますか?」と聞かれた。
「相談したいって別に思っていないな」と考えてから、アウトプット相談で大事にしていることを振り返ってみた。そうしたら、「とにかくその人の話を聞いて、深いところにある潜在的なニーズを知る」をとても大事にしていると気が付いた。
そのとたん、私もそれを誰かにしてほしいとわかってしまった。考えるほどに胸が熱くなり、涙が出そうになる。
これは、久々に掘り当てた私の中の金塊だ。
こういう金塊が見つかると、自分に対する理解が大きく進むという経験が多々ある。
私はどうしてほしいのか考える。
「私の話に延々と興味があって、ずっと的確な質問を投げ続けてくれる人に話を聞いてほしい」
と思うも、そんなことは叶うわけがないとわかっている。
「そういう人がいない限りこの欲求は満たされない」
と、いつものように諦めそうになったけれど、もしかしたら違うかもしれないと考え直す。
おそらく、完璧な親友を求めるのが間違いであるように、完璧な傾聴を求めるのも間違いなのだ。だって相手は人間なんだから。
私の要求レベルに合った人(というとおこがましいが)の数人と、ときどき話ができればいい。たぶんそれを定期的に繰り返すことで、私は満たされていくのだと思う。
……なんてロジカルに説明するといろいろなことが台無しなのだけど、つまりは気の合う友達が数名いればいいってことだ。
45歳の抱負は、親友を数名作ること。
自分に素直になればきっと簡単だ。ただ、素直になるのが難しいのだ。