自由とは決められること
フリーランスは、簡単に言うと会社員より「自由」がある。
自由とは何か、やりたいことをやらなくていいとか、いろいろあるけど、「自分で決められる」ということなんだと思う。
例えば、両手両足を縛られている状態は、自由がない。それはどういうことかというと、両手両足をどこに置くか、どのように動かすかを自分で決められないということだ。
両手両足を縛られていないとしても、「手足はこことここに置かなくてはいけない」と決められていて、守らなくてはならないのであれば、自由ではない。
ただし、「その言いつけを破る」という選択もできるので、本当に縛られているよりは自分で決める余地がある。会社員というのは、こういう状態なんだと思う。
フリーランスになって、年金少ないし育児手当ないしいろいろお金的にデメリットもあるけど、幸せを感じるために日々生きているのだとすれば、「自分で決められる」というはもう驚くほどに幸せをもたらすなあと思っている。すぐにはわからないんだけど(いろいろ不自由もあるから)、数年やってきてとてもとても実感する。
無力感は育てることができる
無力感は、育てることができる。 「無力感を育てる」というのはおかしな言い方だが、人を無力な状態にする方法があるという。
それは、「何かをしても無駄だ」と思わせること。例えば、ノミの実験が有名だけど、透明な天井のあるところでノミを住まわせていると、天井を取り払ってもノミはそこまでしか飛ばないのだという。
犬の実験で無力感を育てた例が、『オプティミストはなぜ成功するか』という本に書かれていた。
手足を動かそうとしても無駄、という経験を積み重ねすぎると、人は手足を動かさなくなってしまう。(ただ、一部、それでも動かし続ける人がいるらしい)
これは、決めることの全く逆だ。つまり不自由な状態ということ。
子どもの頃から「自分で決める」を育てたい
子どものうちから、「自分で決める」を育てた方がいいと思うのだ。子どもたちが幼児の頃に通信教育や本で学んだモンテッソーリはそういう思想だ。楽しい教具(と呼ばれる知育玩具のようなもの)が並べられていて、どれで遊ぶか自分で決める。いつ終わりにするかも自分で決める。片付けも自分でする。そういうことを毎日繰り返していくのだ。
「人に言われたからこうなった」
「自分で決めたらこうなった」
二つあるとしたら、後者の方がずっとずっと学びが多いと思う。とはいえ、学びうんぬんより、「決めること」に大いなる価値があると思う。
それは、どんな風に言い表せるのかわからないけど、人の可能性を何倍にも大きくすると思っている。
私は、大人になってもしばらくは人に決めてほしい人だったから、その違いがとてもとてもよくわかる。