昨日、ポッドキャストの収録があって「自分の軸」について思いをはせた。
切り取る角度で全然違うので、なかなか「これ」と決めるのが難しい。
そもそも「軸」とは何かというと、何だろう(笑)。
決断するときのよりどころになるもの、と考えるともう少し考えやすい。
「欲求」「譲れないもの」「恐れ」「やりたくないこと」「避けたいもの」とか。
仕事で考えるのか、人生で考えるのかによっても違う。
でも何かしら、言葉にしていないだけで、私たちは判断の軸を持っている。
欲求は「一体化したい」
「欲求」から話すと、私は「一体化したい」になる。
私のほぼすべての行動は、誰か(あるいは世界)と心(あるいは体)で一体化したいというところにつながる。本当に一体化することはできないから、そこに至ろうとするプロセスの話になる。私が求めている「つながり」は、一体化するためのプロセスだったり準備だったり、そのものだったりする。たぶん。
やりたくないこと
仕事で「やりたくないこと」でいうと、「ネットで調べて記事にしてください」という仕事は受けない。それはどうやってもかなりグレーゾーンに行くし、グレーを避けて記事を書くなんてことは楽しくないから。
「見捨てられる」が恐れ
私が心の奥で抱いている「恐れ」は、「見捨てられる」ということ。
以前「コルクラボの温度」というポッドキャストで話したけれど、私は「所属する」ことに結構魅力を感じている。
それは、基本的には「見捨てられる」ことがないからかもしれない。仲間外れはあるけど、サクッと、他意なく、「興味が薄れた」とかの理由で、見捨てられることは、ない。
なぜそんな恐れを抱いているのかと言うと、おそらく幼少期の体験に端を発しているとは思う。あと、もともとの生まれ持った性質もあるとは思う。
「恥」を避ける人生
避けているものは「恥」。恥ずかしいことを避けるように生きている。いろいろなことが恥ずかしくないように行動している。いまやっている発信とか、普通の人が恥ずかしいと思うはずのことは、恥ずかしいを乗り越えられたもの。
でも、恥ずかしいことをあえてやらねばという思いもある。つらいけどその先にいいことがあると知っている、水風呂に入るような感じだろうか(水風呂は入れた試しがないけど)。
「没頭」の時間を増やしたい
自分の時間の使い方としては、没頭する時間を増やしたい。フロー状態、みたいなこと。
没頭している時間は、後から考えると幸せだし、孤独を感じないし、世界と一体化しているような感覚になれる(と思っている)。
文章を書いたり、人と話したりすることは没頭できる。本を読むのも、映画を観るのも、ほかのことを置いておいて没頭したい。
でも、没頭しっぱなしだと、没頭できる環境が壊される可能性が高まる。だからしょっちゅう没頭から抜け出して、環境を整えなくてはならない。
軸と言っても複雑すぎて言葉にしづらい
ここまで書いたけれど、そろそろあきらめムード。
抽象度、ジャンル、シーン、もろもろを想定しないとこういうことは書けないのかもしれない。
自分の中の複雑なものが、どこでどう表れるかは、一般化しづらい。かなり細かく限定しないと、自分の問いに自分で答えられない。
急に論点が飛び越えるけど、複雑なものを表すために物語があるのだと思う。いろいろなことを限定したうえで、たくさんの言葉を重ねないと、ものごとの本当のことは映し出せない。