Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

不幸に見えているほうが便利

いいことがあってもTwitterや、コミュニティのSlackなどで大々的に話せなくなってきてしまった。それはなぜなんだろうか。

 

そう考えているとまずは「どう思われるか」を気にしているということがある。

 

例えば、私はコロナで逆に業績が良くなったのだけれど、それをTwitterなどで発信すると、コロナで職を失った人、会社をたたむことになった人、そういう人を傷つけるのではないかと容易に想像できる。

 

あと、私が誰かの「よい報告」に嫉妬することもある。「いいなあ、うらやましいなあ」というある程度好意的な嫉妬だとしても、嫉妬されるかもしれない発信を自分がするのはリスキーな気がする。それは自分が嫉妬心が強いからに他ならないので、なんだかしょうもない気もする。

 

「嫉妬されない」をコントロールしようとするのが間違っているのかもしれない。嫉妬するときはするし、嫉妬しないときはしない。人によっても違うし、タイミングによっても違う。私が発信するときに、受け取る人がネガティブな状況かどうか、知るすべはない。

 

また、私は子どもが不登校でシングルマザーなわけだけど、「不幸にみられる」そのことに、最初はとても抵抗感を持っていた。でもある時から気にしないようになった。自分がみじめだと思わなければ、何ともないのだ。

 

ただそうすると、「不幸だと思われていたほうが楽」ということに気が付いてしまった。「おいしい」というやつだ。嬉しいことや運のいいこと、うまくやっていることを発信すると、「不幸ブランディング」が崩れてしまう。なんという恐ろしい考えだろうか。

 

かくして私はそのことに気が付いたので、そんなしょうもないものを手放す時期に来ているのだろうと思う。不幸だと思われることがぬるま湯になるととても楽でいいけれど、なんか自然じゃないし健康的じゃない。

 

私は、実はとてもうまくいっているし、とても幸せにやっている。