ものを覚えることに価値を感じなかった。興味もなかった。
頭ではわかる。覚えた方がいい。だけど気持ちがついていかない。気持ちが乗らないと、頭でわかっていることも実行に移せない。
いろいろと本を読んでも、概念として頭に残す。ものの名前は取るに足らないと思っているフシがあった。
知識があることは何がいいのか
まず、知識が豊富な人をカッコいいと思うか。
確かに思う。正確に言うと、思っているつもりだった。
ただし「知識があるから、その知識を人に話せる」「人を楽しませられる」「賢そうに見える」「仕事ができそうにみえる(実際できるのかも)」……それくらいでは、私の行動を変えることはできなかった。
自分自身が、知識を人に話したり、知識によって人を楽しませたりすることに魅力を感じないのだ。
「知識がある」=「マップラバー」に置き換えて考える
マップヘイタ―とマップラバーという分類がある。「動的平衡」を提唱している福岡伸一さんのご著書に書かれているらしい(私はラジオでしか聞いたことがない)。
下記のブログで書いたけどとてもわかりにくい(笑)。
大事なところだけ引用。
福岡さんは著書の中で百貨店の例を出しているらしい。マップラバーはまず全体図を知る。フロアガイドなんかを見る。短時間で目的地に付ける。マップヘイターは適当に歩く。ふらふら探す。最終的に目的地には着くけれど、マップラバーより何倍も遅くなる。
私はそこまでマップヘイタ―ではないけれど、近い場所だけを見て全体感を把握せずに動くことが多い。
例えば、電車に乗るときは出発駅と乗換駅と到着駅しか把握しないし、乗り終えたらあっという間に忘れてしまう。おそらく、薄い霧の中を歩いているような感じだ。進む方向はわかるし、目印はときどき出てくるのだけど、遠くまで見えないし、何となく不安だ。
新しい世界があるような予感がした
周囲からの影響もあり、理屈ではなく、ものを覚えると新しい世界が見えるような「予感」がした。
安心感が変わった
試しに、取材で初めて行く場所に降り立つとき、初めて乗る電車の、通る駅すべてを覚えてみようと思い立った。
子どものころ住んでいた場所の近くということもあり、知っている駅名もあったのでそれなりに覚えられた。
帰路。ぼーっと電車に乗っていたのだが「あれどこまで来たかな」とふと駅名を確認した時に「どの辺まで来ているかわかる」という事実と、それによる安心感に驚いた。当然調べればわかるのだが、瞬時にわかることにより、こんなにも世界ははっきりと見える。
興味が変わった
いつも乗っている電車も、実は全部の駅の順序を覚えていない。それで、覚えることにした。じっと駅の看板を見る。順番を把握する。すると、降りて歩いてみたくなった。きっと隣の駅と人の多さなんかは似ているんじゃないか。商店街はあるのだろうか。古いお店は? 降りて歩いてみたら、もっとその駅を忘れずに覚えられるに違いない。
こうして、興味の幅が増えるんだという驚き。世界が広がる。私の意識の枝葉が広がっていくのを感じた。
味わい方が変わった
ニュースで知らない人が登場する。知らない言葉が出てくる。聞いたことはあるけど説明はできない言葉が出てくる。そんな時に調べるようにしてみた。ウィキペディア最強。
もちろん、読んでも全然覚えられない。だけど、少しは頭に残る。誰かに聞いただけだと、霧の中にいるようだ。だけど自分で調べれば、地図を手に入れたように感じる。知らないことをさらに調べても恥ずかしくない(聞くのは恥ずかしいことがある)。
できごとに彩が生まれる。今遭遇しているできごとをひとつひとつ見つめて、味わうようになる。
ここで知ったことが、どこかでつながるかもしれないという予感。
予測するようになる
ものを覚えようとすると「予測する」ということが分かった。覚えているか確かめたいから、頭の中で答えを予測する。それから、あっているか確かめる。あっていなかったら改めて覚える。
仮説を立てるのはとても役立つ習慣で、それは、ものごとを記憶しようとする日常から身に付けることができるかもしれない。
何かを捨てることにもなる
私はこれまで、音楽を聞くときに歌詞の意味を考えないし、映画を見て監督の意図を探ったりしないし、小説を読んであらすじを振り返ったりしないで生きてきた。
そうしたいと思っていたからだ。
できるだけ思考を止めて、感覚的に受け止めたいと思っていた。今もそういう気持ちはある。
これからいろいろなことを覚えたり調べたりするようになったら、感覚的なものを純粋に受け取る心持ちは少し削がれてしまうと思う。
だけど、覚えたことの先に新しい感覚、感情、触り心地のようなものはあるはずで、そういうものを体験したいと思っている。
行動を変えるということは、今までの行動を捨てるということだ。それはきっと何か目に見えないものを捨てている。それでも、少し変わってみたいなと思っている。