Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

「読書」と「書く」の自由について

今読んでいる『ジェイムズ』という本に次のような記載があった。

 

読むことの力が現実的なものとしてはっきりと私に感じられた。もしも文字が私の目に入れば、誰もそれをコントロールすることはできないし、私が何をどう受け取るかを決めることもできない。私が単に文字を見ているだけなのか、それとも読んでいるのか、頭の中で音にしているのか、それとも理解しているのか、誰にも知りようがない。それは完璧に私的な行為であって、完璧に自由で、それゆえ完璧に破壊的だった。

 

『ジェイムズ』は、『ハックルベリーフィンの冒険』において、ハックが一緒に冒険をする黒人の側から書かれたオマージュ作品だ。

黒人のジムは普段、文字が読めないふりをしている。

ところが、冒険の最中に本を見つけて、本を読む喜びを感じている。


最近忘れていたけれども、確かに読む行為はとても自由だ。
斜め読みをしてもいいし、ゆっくり読んでも、じっくり読んでも、同じ場所を何度も繰り返し読んでもいい。(デバイスに対して)早送りや巻き戻しといった指示すら必要ないのだ。

「それゆえに本が好き」なのかはわからないけれど、「自由であること」は大きな本の魅力だ。

ただ、本は片手(ページめくり時には両手)、頭のリソース、視覚を占有してしまう。だから、本以外のものの存在を考えると、逆に自由がない、と言えるかもしれない。

 

別のことで考えると、「手で書く」のはかなり自由度が高い。

Wordを使ったり、デジタルデバイスを使って書くと、一定のルールの中でとても不自由を強いられている。

例えば、昔のシナリオを読むと、言葉の途中でカタカナを入れることが多かった。「だよネ」「ン……そうだケド」みたいな表現。なんともふにゃりとした風情が漂う。

今見ると古臭いけど、手書きという自由があったからできた表現なのだろう。

ワープロソフトでやろうとすると面倒くさすぎる。

手書きでないことにより、自由な表現を奪われている側面はあるだろう。

 

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ちょっと思い立ったので書いたけど、「本を読む」という行為やその喜びについては、もっと考える余地があると思う。

 

読書好きの友人に「なぜみんな本を読まずに動画ばかり見るのだろう」と投げかけたら「本の楽しさを知らないんだよ!」と言った。

お芝居や映画も好きな女性だけど、彼女にしてみたら「読書は圧倒的に面白いコンテンツ」なのだ。ただただ楽しいから読んでいる。

そして「私たちは本の楽しさを知っている(から圧倒的に幸せなのだ)」と私に語った。

 

私はなぜ、動画を観るより本が読みたいのだろうか。