Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

「表現以前」をためていく(『テキシコー』を作った佐藤雅彦さんと佐藤匡さんの対談を読んで)

プログラミング的思考を養う『テキシコー』というEテレの番組を教えてもらって、ちょっと動画を見たらピタゴラスイッチと同じ匂い。それ以前に、ものすごくおもしろい! 子どもも夢中になるだろうなと確信した。

 

ユーフラテスというクリエイティブユニットの作品であると聞き(ピタゴラスイッチもそう)、検索。この記事にたどり着いた。

www.cinra.net

 

うわわわ~~ということばかりで、自分のために感想を書いておきたくなった。

記事を読むとわかるが、影を強く映した写真の角度を変えて、影が正方向(垂直)になるように置き換えると、影の方がメインであるように見えると言うもの(影が本物に、本物が影のように見える)。

すごく驚きました。でも、その面白さをうまく説明できないんですね。

もちろん、その発見がすぐ表現に結びつくわけではないのですが、我々にとって大事なのは、こうした「表現以前」をどのくらい持っているか、なんです。

これね。「表現以前」とは何か。それは、「面白いけど、面白さをうまく説明できない発見」みたいなものなんだろう。

私たちはときどき「うわ、これ面白いね」みたいなものを発見する(ような気がする)けれど、「だから何?」って感じで終わってしまう。その美しいひとしずくは、いつのまにか地面に染み込んでいくように、なくなってしまうのだ。

 

それを表現するときに、佐藤雅彦さんが大事にしていることがあるという。

鑑賞者が自ら発見する、「分かること」が重要だと考えてきました。なぜなら、外から与えられた情報ではなく、自分の内で作った体験は、自分にとって、とても強くユニークなものだからです。

自ら発見する「分かること」。ほんとうに、こうありたいと思う。

 

ただ、実際には自ら発見するように「仕向けている」わけで、「発見した気にさせる」というところなのかもしれない。本当に自ら発見してもらおうと思ったら、かなりの割合の人を取りこぼさざるを得ないだろう。多くの人に発見してもらおうとするなら、そう仕向けなくては(コントロールしなくては)ならないから。

 

この辺で、『テキシコー』の話が出てくる。とてもいい。

私とユーフラテスが関わった『テキシコー』というプログラミング思考を伝える新番組は、その(注:情報過多なテレビの)真逆なんです。この番組を小学校の教室で流すと、みんなすごく熱中して見る。そうした映像体験を求めている人は、じつは多いのではないでしょうか。

 きちんと情報を積む順番を間違えなければ、かなり難しい内容でも人はわかるものなんだなと感じました。僕たちは、いつもその部分に賭けています

 子どもにはまだ見せていないけれど、今夜見せてみたいと思う。夢中になりそうだ。動画はとてもゆっくり、ひとつずつ、言葉ではなく表現で、「分かる」を進めてくれている。カタルシスが強い。

 

佐藤雅彦さんは「根源的なものに触れた時の驚きや感動が大切かもね」と言う。

私自身は、さらに中学で「解の公式」を学んで、数学的なアルゴリズムの面白さ、綺麗さに驚きました。(略)このように根源的なものに触れたときの驚きや感動にこだわるのは、大切なことの1つかもしれませんね。

今でこそ文章に携わっているけれど、私は数学や物理、プログラミングが好きだった。特に、物理の力学が好きだった。根源的なものに触れた時の喜び。電車が発車するときに身体が進行方向と逆側に揺れてしまうのはなぜなのかを知った時の喜び。それが他のものにも適用され、あらゆるものがその法則にしたがっていると分かったときの世界のつながり方と言ったらない。

 

「面白いけどうまく説明できない」という「表現以前」を見つけたら、自分の中でどう遊んでいくのか。対談している二人はタイプが違うという。

映像にしてみると、本物の風景に向き合うより、自分の思考が整理されていく感覚があります。一方で僕が解説するのも変ですが(笑)、先生は言葉で整理する部分が大きいのではないかと感じます。

きっと、自分の好きなやり方でいいのだ。でも何かしら考えたり手を動かしたりないとね。

 

いいないいなと思うけど、普通の人にできることなのだろうか。インタビュアーの方の質問が、すごく、いい。

いつ成果になるかわからない「表現以前」を温める時間は、それ自体がとても楽しいものでもあると同時に、不安を感じる時間でもあるのではないでしょうか?

 「不安ですよ」と佐藤雅彦さんは答える。

一番の不安は、1999年に慶應大学で佐藤研を始めたとき。湘南にある小さな研究室で、まだ名前もなかった『アルゴリズム行進』をみんなでやっていました。

「こんなことをしていていいのか」という不安はつねにありましたね。

記事内には、大の大人がアルゴリズム体操をやっている写真が貼られている。不安だ、不安だろうな……。

何の保証もないけど、「これが面白い」という確信だけはありました。それは現在の活動でもまったく変わりません。「表現以前」を追求するのは、時間もかかるし不安も大きいけど、そこをやらないといけない。

研究会の発表で何が得られるわけでもなく、強いて言えば、ここの数人の仲間が称賛してくれるだけ。でも、それだけを拠り所にしてやっています。

「これが面白い」という確信と、数人の仲間の賞賛。仲間(の感性? センス?)を信じているからこそ、よりどころとして頑張れるんだろう。

 

そして、好きなことの話。自分が本当に好きなことを見つけるのはとても難しいという話。まずは佐藤雅彦さん。

自分の本当に好きなことを分かることはとても難しくって、私自身も40歳をすぎてからできるようになりました。でも、だからこそ、とにかく一生懸命に、自分がとりあえず好きなこと、夢中になれることをその都度作っていくことがすごく大事だなと思うんですね。

 佐藤匡さんは、こんな風に言う。

憧れている何かに近づこうとするより、実際に自分が行動していて面白いもの、楽しいものを続けていくことのほうが確実だと思います。

私もまったくその通りだと思う。やっていて夢中になれるもの、夢中になってやってしまうものにどんどん近づいていきたい。だから私は子どもに「何になりたい?」と聞くより「何がしたい?」と聞く。「何をし続けたい?」みたいにね。

 

そして、佐藤雅彦さんのこの言葉。

自分が真に好きなことが見つかると、指導の半分は終わった感じですね。「本当にこれをやっていいんですか?」と言うときの、学生たちの生き生きした顔は忘れられないです。

 物を作り、出していくことが大事だと締めくくる。

そうしたものを見つけるには、とにかく自分を外に出すことです。文章でも映像でも物でもいいから、自分を外在化させてみてほしい。それを繰り返し、本当に疲れてくると本当に好きなことしか出てこなくなりますよ。

 

私が思っていることを肯定してくれた記事でもあるし、忘れていたり、ないがしろにしていたことを思い出させてくれたり、「表現以前」の大切さを教えてくれた。

私も「表現以前」をためていきたいなあ。

 

以前書いたこれがちょっと近い。

emitochio.hatenablog.com

ここでは、

「だから何?」はそのままでいい。何かに昇華させなくていい。

って書いたけど、何かを作るときに「だから何?」が「表現以前」として生きてくるのだと、教えてもらった感じ。

このブログではEvernoteにためてるって書いてあったけどほんとか?? 

 

Evernote見たら、書いてあった……。ほんとに「だから何?」だな~汗

キーボードのホームポジションがひとつ左右どちらかに動いただけでめちゃめちゃな文字列になってしまう現象が面白い(手の動きは完璧に合っているのに)。こういう現象ほかにもないかな

見るのを忘れてしまうので「#表現以前」というハッシュタグをつけて、Twitterの鍵垢に書いてみることにしよう(表アカウントで書かないのは、不安だからですねw)。